2017満州、遠い記憶をたどろう。(歴史)
ことの始まりは祖父から。
祖父は昔で言うところのガリ勉。
試験前は2週間前から徹夜で勉強していたらしい優等生。
そんな祖父は地元の高等学校を卒業し、東京の某有名大学を卒業した。
就職試験は、東大生5,6名と競って、採用をモノにした強者。
途中の経緯は分からないが、満州国の★★★長(隊長)に就任。
日本から連れていかれた父●は隊長の息子として、小学校に上がった時、ガードマンが二人付けられた。転んだら助けてくれる・・・ボンボンかよ。
最初は大連で暮らしていたが、祖父が昇進し、瀋陽へ。
祖父はその役柄、当時の中国の長、毛沢東との交流があった。自宅にも来ることがあったらしい。父●も面識があった。毛沢東は上手に日本語を話していたそうだ。
祖父は本を見ながらロシア語を話せたので、いろいろとロシアのことで毛沢東と話すことも多かったのだろう。英語はペラペラ話せたらしい。羨ましいな。
また、祖父は満州国に利用されていたラストエンペラー溥儀とも食事をしたことがあった。
よく父●に「あの人は可哀想な人だ。」と言っていたらしい。
そんな大人な事情なんかあまり興味がない子供であった叔父①と父●は、自由奔放であった。
叔父①と瀋陽故宮博物院の敷地内で駆けっこ。

鉄道乗り放題。
「隊長の子」として、自由すぎる日々を過ごしていた。
とはいっても、流石に瀋陽故宮博物院の一部では、靴を脱いで裸足にならなければならなかったらしい。
そんな父●は、いつしかある犬と出会った。
その犬も父を慕い、遊びに来ていたらしい。
子供だった叔父①は犬に跨り、一緒に駆け回る。
すると、周囲の住民はパタパタと窓や玄関を閉めたらしい。
不思議がる父●に祖父は
「お前が遊んでいる犬は、狼だ。」と告げるのである。
狼を従えた子供は、いつしか、その父●と同様に「隊長」と言われたのであった。
祖父は日常、食べきれない食べ物などを近所の中国人にあげていたらしい。
私が子供のころは蝉を捕まえると「地中に長く暮らし、やっと出てきたのに、逃がしなさい。」と言っていた祖父。思いやりのある人だった。
戦時中、朝道を歩いていると、道に横たわっていた死人が、夕方には裸になっていた。若い女の子は昼間は一切家屋から出てこない。存在が知れたら、暴行されるかもしれないから隠れていた。など、子供のころから戦時中の様子を聞かされてきた。
日本が敗戦した時、祖父はA級戦犯として牢に入った。もちろん、そのうち処刑。
祖父は真面目だった部下たちが次々と自害したり、処刑されたりするのを目の当たりにして、自責の念で絶食していた。
父●が面会に行って「食べないの?」と聞くと、祖父は「うん。」と答えたそうだ。
そんな祖父を地元の中国人たちが助けてやってほしいと嘆願してくれたそうだ。
やせ細って、立ち上がれない祖父が牢から自力で出られたら、助けてやると条件が出された。
祖父は何とか這いつくばって牢から外に出たらしい。
その祖父を中国人たちがリアカーに乗せ、自宅まで連れ帰った。
その後、祖母と子供たちと一緒に日本に引き揚げている。この引き上げる途中で叔父●が生まれた。
列車に乗った父●たちをあの犬が追いかけてきた。
でも、連れては行けない。
小さな橋は何とか渡って追ってきていたが、大きな橋になると犬は渡り切れずに鳴いた。
大連に着き、港から日本行きの船に乗った時、1匹の犬が吠えていた。
それは、あの愛狼だった。大連まで追いかけてきていた。
ちびは海の飛び込んで船を追ったが、ついていけるわけもなく今生の別れとなった。
引き上げ船では、帰国しても親類もない人々が、幼い我が子を海に放り投げた。それを見た父●は祖母に伝えたが、「見なかったことにしなさい。」と諭された。生まれて数日の叔父●は祖母によって大事に連れて帰られた。
この引き上げる際に、祖父はオムツがいっぱい入ったリュックの底に1枚の紙を隠し持って帰った。
それは、満州国から頂いた建国功労の賞状だった。
何かの機会にそれが出てきて、祖父の遺影の下に飾られている。
全て、父から聞いたことなので、どこまでが確かなことかは今となっては分からない。
祖父は昔で言うところのガリ勉。
試験前は2週間前から徹夜で勉強していたらしい優等生。
そんな祖父は地元の高等学校を卒業し、東京の某有名大学を卒業した。
就職試験は、東大生5,6名と競って、採用をモノにした強者。
途中の経緯は分からないが、満州国の★★★長(隊長)に就任。
日本から連れていかれた父●は隊長の息子として、小学校に上がった時、ガードマンが二人付けられた。転んだら助けてくれる・・・ボンボンかよ。
最初は大連で暮らしていたが、祖父が昇進し、瀋陽へ。
祖父はその役柄、当時の中国の長、毛沢東との交流があった。自宅にも来ることがあったらしい。父●も面識があった。毛沢東は上手に日本語を話していたそうだ。
祖父は本を見ながらロシア語を話せたので、いろいろとロシアのことで毛沢東と話すことも多かったのだろう。英語はペラペラ話せたらしい。羨ましいな。
また、祖父は満州国に利用されていたラストエンペラー溥儀とも食事をしたことがあった。
よく父●に「あの人は可哀想な人だ。」と言っていたらしい。
そんな大人な事情なんかあまり興味がない子供であった叔父①と父●は、自由奔放であった。
叔父①と瀋陽故宮博物院の敷地内で駆けっこ。


鉄道乗り放題。
「隊長の子」として、自由すぎる日々を過ごしていた。
とはいっても、流石に瀋陽故宮博物院の一部では、靴を脱いで裸足にならなければならなかったらしい。
そんな父●は、いつしかある犬と出会った。
その犬も父を慕い、遊びに来ていたらしい。
子供だった叔父①は犬に跨り、一緒に駆け回る。
すると、周囲の住民はパタパタと窓や玄関を閉めたらしい。
不思議がる父●に祖父は
「お前が遊んでいる犬は、狼だ。」と告げるのである。
狼を従えた子供は、いつしか、その父●と同様に「隊長」と言われたのであった。
祖父は日常、食べきれない食べ物などを近所の中国人にあげていたらしい。
私が子供のころは蝉を捕まえると「地中に長く暮らし、やっと出てきたのに、逃がしなさい。」と言っていた祖父。思いやりのある人だった。
戦時中、朝道を歩いていると、道に横たわっていた死人が、夕方には裸になっていた。若い女の子は昼間は一切家屋から出てこない。存在が知れたら、暴行されるかもしれないから隠れていた。など、子供のころから戦時中の様子を聞かされてきた。
日本が敗戦した時、祖父はA級戦犯として牢に入った。もちろん、そのうち処刑。
祖父は真面目だった部下たちが次々と自害したり、処刑されたりするのを目の当たりにして、自責の念で絶食していた。
父●が面会に行って「食べないの?」と聞くと、祖父は「うん。」と答えたそうだ。
そんな祖父を地元の中国人たちが助けてやってほしいと嘆願してくれたそうだ。
やせ細って、立ち上がれない祖父が牢から自力で出られたら、助けてやると条件が出された。
祖父は何とか這いつくばって牢から外に出たらしい。
その祖父を中国人たちがリアカーに乗せ、自宅まで連れ帰った。
その後、祖母と子供たちと一緒に日本に引き揚げている。この引き上げる途中で叔父●が生まれた。
列車に乗った父●たちをあの犬が追いかけてきた。

でも、連れては行けない。
小さな橋は何とか渡って追ってきていたが、大きな橋になると犬は渡り切れずに鳴いた。
大連に着き、港から日本行きの船に乗った時、1匹の犬が吠えていた。
それは、あの愛狼だった。大連まで追いかけてきていた。
ちびは海の飛び込んで船を追ったが、ついていけるわけもなく今生の別れとなった。
引き上げ船では、帰国しても親類もない人々が、幼い我が子を海に放り投げた。それを見た父●は祖母に伝えたが、「見なかったことにしなさい。」と諭された。生まれて数日の叔父●は祖母によって大事に連れて帰られた。
この引き上げる際に、祖父はオムツがいっぱい入ったリュックの底に1枚の紙を隠し持って帰った。
それは、満州国から頂いた建国功労の賞状だった。
何かの機会にそれが出てきて、祖父の遺影の下に飾られている。
全て、父から聞いたことなので、どこまでが確かなことかは今となっては分からない。
この記事へのコメント
歴史上の人が遠いところの人ではなくて,
今を生きる人とリアルにつながっているんだなあって,実感するようなお話ですね。
ついこの間,朝鮮半島から船で逃げ帰る時に,三歳になって,もうおむつが取れたのに,あえておむつをさせられて,その中に現金を隠されたっていう話を聞いたばかりでした。
旅のお話はゆっくり綴ってくださいね。
大物やわ
お別れはうるうるしてしまう
お祖父さんも凄い人ですね
現実逃避な旅人さんに血は受け継がれてる気がしました
はい、戦時中のことはよく父から聞かされていたので、二度と戦争は起きてほしくないなあなんて思いました。そして、歴史上の人物に会っていたなんて凄いとびっくりもしていました。
旅日記の中には、そんなことは出てきませんが、父が懐かしがっていた場所なので、しっかり書けたらなあなんて思っています(*'▽')
大物というか、物知らずというか、7歳児はこんなもんなんでしょうか?
祖父は多くを語りませんでした。中国でのことは一切語っていません。学校の宿題は見てくれましたよ。血は・・・継がれていないかも・・・ごふっ。